凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

37歳になった僕も、ずっと床にひっくり返って、あばれたかった

伊集院とらじおとの2018年7月16日のゲストは、「みらいのみらい」の細田守監督だった。以下、そのトークを読みやすいように、一部省略して引用する。

[伊集院] 僕は今子供はいなくて、親とも疎遠だから、わりと家族という関係の中にいなくて。でも(この映画の)テーマはもろに家族じゃないじゃないですか。
・・・
[伊集院] 自分がすごい感じたことがある。僕は子育てをしていなかったりとか、今、歳をとった親と対峙することから逃げているせいで、俺の子どもが終わっていないっていう。主人公のあの4歳の子から俺は逃れられていない。4歳の子が感じるストレスが同じようにストレスなんです。あれ、多分、子育てしてる親からしたら、ちょっと違うと思うんです。俺、悲しいくらいに腹が立つんです。自分を見てくれないこととか。
・・・
[細田] でもね。僕ね。僕自身もなんていうのかな。これ、うちの子がモデルで、子どもが僕ら両親の気持ちを赤ちゃん(下の子)に持ってかれて、うちの上の子がもう床にひっくり返って泣いてるっていうのを見て思いついたんですけど。でも、僕はそれを見て、これは子どもならではのことだなって全然思わなかったんです。
全然。自分が若い時に好きな子にフラれた時も、俺も気持ちとしては床にひっくり返って暴れたかったし、もっと大きくなってすごく大事な人に去られてしまった時も、もう40ぐらいの時とかです。でも、やっぱり子どもと同じようにひっくり返りたかった。だからつまり人間っていうのはさ。子どもだから床にひっくり返るんじゃなくて、愛が自分のこの胸から逃げていっちゃうと、ああせざるを得ないんだっていうのをそういう姿を子どもに見たっていうか。ああいう姿ってどんな人の中にもあって。愛されなきゃやっていけない訳じゃないっですか。子どもに比喩して描けるんじゃないかなっていうのがこの映画を作るきっかけなんですよ。伊集院さんがそう思ってくださるのは僕ときもち同じですっていう感じなんです。

プリミティブな僕の気持ちは、ずっと床にひっくり返って暴れたかった。小さい頃の断片的な記憶が、たくさん頭の中を駆けめぐった。

僕も、泣き叫びたかった。

自分が世界の中心ではないこと、世界が自分にとって都合が悪いこと、不公平であること、兄弟と自分の比較、自分がちやほやされないこと、保育園でどんな風に友だちを作って良いか分からなかったこと、親友だと思っていた友達がだんだん別の友だちと仲良くなっていったこと、自分が自分のままで誰からも受け入れられないように感じること、むけられる場所が見つけられない気持ちを、屈辱感を、不満を泣き叫びたかった。

誰かに、そんな欠けたところを全て満たしてほしかった。

そうしないために、いろいろなやり過ごし方を学んできた。目上の人に対するどこか媚びたような態度、親しくなりたい人にも壁が残るような気を遣った関係を作ってしまうこと、他人からの評価に一喜一憂したり、小さなことをずっと気にしてグルグル考えたり、ブログやツイートへのリアクションを気にしてしまったり。

37年間続行けてきた、自分も嫌いな自分の情けなさの後ろには、保育園の園庭で活発な友人たちが楽しそうに声を上げながらはしゃいでいるのを、目立たないように、自分の遊びをしているように装いながら眺めていた5歳の僕がいる。

そうやって初めての社会に触れて、そして刻まれた気持ちの上に、ピントの外れた処世術をずうっと上塗りしてきたんだ。

本当の自分をさらけ出し、自分を無防備にしながら勝負し続けていたら、そんな今も変わっていたのかもしれない。

そんなこれまでの自分を悔やんでも始まらない。死ぬまで僕にはどのくらいの時間が残されているんだろう?僕は、これからどうなりたいんだろう?そんなことを、ラジオと言うには無粋なパソコンから流れるやりとりを聞きながら、ぼんやりと考えたんだ。

のはなし にぶんのいち~キジの巻~ (宝島社文庫 C い 6-2)