凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

「どうなるかわからない」ことへの怯え

人は特定の未来に悩むのではない、「どうなるかわからない」ことへ怯えるのだ

近ごろ、自分の中にはある種の怯えがあって、それが仕事や人間関係の足枷になっているという考えに至りました。今日は、その怯えについて書き残しておきます。

不安の中に手を突っ込んで

どうなるかわからないこと

執筆や大きなプロジェクトなど自分が大切にしていることに対するプレッシャーについて何度かこのブログでも書いてきました。今迄は、自分にとって重要度が高い物や、大切なモノだからこそ、ストレスに感じてしまうとばかり考えていましたが、そうでも無い側面があることに気づきました。

僕にとってそれらの仕事は“新しいこと”だということです。ルーチンでもなく、前やったことでもなく、新しい物を作ったり、計画を練ったり、文章をひねり出したり、どういうリアクションをされるかが予測もつかない状況で人にそれをプレゼンしたり、・・・そういった「どうなるかわからない」という状況そのものを恐れているのではないか?とふと気付いたのです。

以前、「死を見つめる心」の「死の恐怖というものが、人間の意識経験がまったくなくなってしまった状態というものは、たとえ概念的には考えても、実感としては考えられないことである」ということに近いように思います。人間は体験したことしか実感できない、未来のことを実感できないのに、僕は未来の実感が欲しかったのかも知れない。

岸本英夫『死を見つめる心』がスゴイ - 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜 岸本英夫『死を見つめる心』がスゴイ - 凹レンズ 〜まとまりのない日記〜

「どうなるかわからない」ものが「どうなっていくか」を捉えようとして、悩んだり、先延ばしにしたり、準備ができるまで待ったりするのは、ある主の不毛さを含んでいます。釣りに行く前に、釣れるかどうかが確実に分かってから、でかけることはできません。スポーツの結果を知ってから観戦をすることなどできないのです。それでも、僕はそういう「決して手に入らない安心」が欲しくて、動き出せない、そんなことを何度も何度も繰り返してきました。恐らく僕の待っているバスは永遠に来ることはない。

何ができるか

このことについて自分が取りくんでいける方法には、どんなものがあるのだろうか?と、ここ2~3日、想いをめぐらせてみました。

いきついたのは、「先のことは分からない」ということについてリアリティを持って実感するということです。「やってみなくちゃわからない」ということは、頭では分かります。それでも、ついつい先延ばしにしたり、取りくむ手が止まるというのは、頭では分かっていても、体や心の面ではまだまだ納得できていない、腑に落ちていないのだと思います。

そして、そういった実感を持つためには、くり返しくり返し先の分からない物に触れつづけて、それを自分なりに解決していくことしかないのだろうと思います。私は、自分の予想と違うことが起こることや、どんなリアクションをするのか予測できない人と話したり、スポーツをみたりするのがあまり得意ではないのだと思います。けれど、目の前にある「どうにかわからないもの」にそれを仕方のないこととしたまま自分から歩み寄って、触れて、その感触を確かめ、「完璧ではないけれど自分で作るとこんな形になるんだ」という結果を甘受していくことなのでしょう。

また、そういう感覚っていうのは習慣やスポーツの技術と同じように、練習し続けないと下手になっていくのだと思います。日々の生活の中で、確実さなど永遠に手に入らないと、何度も何度も新しいもを生み出し続けながら、体に刻みこんでいこうと思います。