凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

「論理的に絶対正しい」と考える時は、だいたい感情につき動かされてる

人間は「自分だけは冷静で論理的だ」と思いたい生き物です。

いくら感情的になっていても、それを他者から見えないように隠すのが一般的な反応です。「自分は偏屈で野蛮な動物ではない」と。それは、他人に対してだけではなく、自分に対してもそうだと思うんです。

自分自身さえもそうやって騙そうとする。大抵は、甘えなんですけど。僕は、このパターンで痛い目を見ることが多い。

私のパターン

30代で、こんなこと考えてるのが恥ずかしいですが、たいてい以下のような内容を考えがちです。

  • 「オナニーしてからやった方が、効率がいいんじゃないか?」
  • 「今日はもう寝て、明日やった方が仕事が捗る」
  • 「あと、5分休憩して○時丁度になってから始めた方がキリが良い」

中学生かよ!?って感じですね。こんな形で自分を騙して、生活が停滞していくのが、ボクが悪循環に陥っている時です。

振り返ると本当に馬鹿馬鹿しいのですが、いざその状況になると、これらの発言が「とても説得力があるアイデア」ように見えるのです。

論理的に思考している時に、強力な確信はない

自分が逃げのスパイラルにハマッた時には延々この思考を繰り返して、やるべきことを後回しにし続けます。しかも、そうすることが「論理的に正しい」という強力な確信を自分の中に持つことが厄介です。

それは、他ならぬ感情です。

もし「論理的思考」なんてものが、他の考え方と独立して存在しているとしたら、それは1つの選択肢のみを強烈に持ち上げたりしない。それぞれの可能性の存在を認めつつ、各行動に伴うメリットとデメリットを並べ、比較し、自分の価値観と照合しながら選んでいくことなんでしょう。

たとえ気分は乗らなくとも、最初に決めたスケジュールに従う。遅れがあったり完璧でなくても一歩一歩前進していく。その道が、できてない自分と向き合う不快感な道でも。疲労感と倦怠感と手を繋ぎながら歩みを進める。やるべき課題がある時に、それなりに建設的なのは、大抵こんな感じです。

「これは論理的に正しい」と強烈な確信を得たときにはご用心。それは、「不快なものは見たくもない!」という感情論以外の何ものでもない。