凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

しあわせの見つめ方

幸福を追い求めても決して手に入らない。それは、虹やそよ風、波のゆらぎと同じだから。

人生30年が過ぎて、幸せを手に入れようとすることをやめました。それが、僕には意味があるように思えなくなってしまったから。

幸福論 (岩波文庫)

幸せを手に入れようとすること、幸せを追い求めることは、水の中で息を吸おうとすることに似ている。そこには、決しててに入らないものを、間違った方法で求め続ける苦悩がある。

幸せとは、そもそも、手に入るものではない。気づいた時から、いつの間にか形を変えてしまうし、輝きも失われる、守ろうとした腕の中で姿を消してしまう。固定された形を持たないのだ。雲や水面のように、それは常に変化し続けるもので、例え一度自分のものにできたとしても、そのままの形で留めておくことはできない。

岡本太郎は、幸せと歓喜を区別した。それらは、別物である。歓喜や喜びは追い求めることができる、それは行為の達成に伴って訪れるから。幸福もその時に顔を出すことがあっても、それは毎回ではない。目指すべきは、目標や価値観にそった行動、歓喜の瞬間であり、幸せではないのではないと思う。

では幸せとは

それでは幸せとはどういう物なのか?今、僕が持っている答えは、「幸せとは感じるもの・受け止めるものである」ということだ。自分の足元に現れ、見つけづらく、時に形を変え、必ずいつか消える。それを捉えるために必要なことは、それを求めて彷徨うことではなく、それが現れた時に、ただ見つめるということだ。いくら月を追って走っても追いつくことはできないけれど、ただその輝きを見つめ、味わい、楽しむことで、ある側面で十分に月を受け止めることができる。

幸せとは目的ではない、それはほとんど常に存在しているから。幸せを手に入れた経験を持つ人は少ないけれど、幸せだったと感じることは全ての人にある。僕らはほぼ確実にある形で幸せの存在を知る経験を持っている。それは、何かを失った時だ。当たり前であったものが消える、身近な人との別れ、生活の変化、そいういった折々で私たちは、「ああ、幸せだったんだ」と感じる。だれもが、幸せであったけれど、それを十分に認識できなかった経験を必ずしている。

つまり僕たちは自分の背中に宝物を背負っていると分からず、走り回り、無くしてしまってから抱えていたものが宝だったと気づく。

幸せと向きあうために僕らができること

美しい景色を見た時に、過去の僕は「この気持ちがずっと続けば良いのに」と願っていた。こんな気分をずっと味わっていたいと、そう望んでいた。けれど、今はすこし違った形でそこにいたい。綺麗な夕日を見た時にも、「この風景は今、ここにしかなくて、この感覚もやがて消える。だからこそ、いまはそれをしっかりと味わおう」と、そんな風に冷静さを持ちつつ心地の良いものに触れられるようになりたい。いつか消えてしまうという歴然とした事実を甘受するようになれれば良いなと思う。

僕らができることは、目を凝らすことだ。偶然に出会った幸せを見つめて、感じ、味わうこと。永遠を望まず、その時にしか存在し得ない感情を穏やかに見守り、そして優しく手を振ることだろう。