凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

ライフワークに出会った

人生をかけられる、そう思えた。10年後、20年後も携わりたいと思える課題がこれだと昨晩やっと腑に落ちる感覚を得た。実際の仕事の関連があるので具体的な記述はできないのだけれど、仕事という枠を超えて、このテーマに取りくことをライフワークだと思える仕事とであった。

死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)

それは、こまで自分の歩んできた道の延長線上にあったし、これまで何度か触れたこともあった。関連の領域で仕事をしたこともあったけれど、昨晩、人生をかけるという覚悟という形にようやく収まってくれた。

これは、ゴールではない。スタート地点に立ったわけでもない。今から始まる10年、20年単位先までかかる旅の方角を指すコンパスを見つけたに過ぎない。歩き続けたとしても、たどり着けるか分からない。未完成のまま、僕は死んでしまうかもしれないし、全てをかけて取り組んだとしても、それが「無駄だった」と評価される可能性もある。僕が道を選んだとしても、最終的に道が僕を選ばないかもしれない。

けれど、そんなことは問題ではないのだ。

僕が昨夜であった体験は2つしかない。

「僕の道はこれだ」 「人生を賭して歩き続ける」

ごくシンプルだ。

あとは、やることは決まっている。「僕はこれをやった」と胸をはれるように人生を捧げていくことだ。

盲目的にならず、バランスを失わず、嘘で自分を固めてしまわずに。1つの信念を持ったからと言って、他の人を軽蔑するのは違う。他の仕事や周囲の仕事をないがしろにするのは違う。自分の理屈に合わない意見に怒りを向け脅すこととは違う。

自分の中に一本の芯を立てて、一つの方向性を向き続けることが大切なのだ。道すがら、不安や疑念、傷つく体験や、行き違い、苛立ち、世界を呪いたくなる出来事など多くのことに遭遇するかもしれない。けれど、それは夢と別の場所にあるのではない。自分の一部だ。

痛みを消すことはできないけれど、痛みは自分が自分の道を生きていることを教えてくれる。それが、足の痛みであるなら、まだ歩みが止まっていない証拠になる。それが、倦怠感でなく疲労であるなら、向き合った証になる。

さあ、これから数えきれない朝と夜を超えて、10年後20年後、僕はこのテーマとどこにいるのだろうか?