凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

地獄でなにができるか

最近、星野源の「地獄でなぜ悪い」ばかり聞いていて書いてみたくなった。僕らは、どういう風に生きたいか?とか、どんな人でありたいか?ってことを考える時に、今ある問題が解決したり、モヤモヤモヤっと持っている不安がなくなって自信をもって人生を軽やかに歩いていく姿を想像する。

そういうことを小さい頃からズッと追い求めてきたように思うんだけれど、人生30年が過ぎて人生の3分の1は余裕で終わっちゃった今でも、不安でなくなる日は中々やってきてくれない。てか、そんな日は本当に来るんだろうか?

幸せであることは素晴らしいと社会から刷り込まれるようになったのはいつの頃からなんだろう?今の生活とは“違った”幸せを探すことが、とってもナチュラルであるように僕らは思ってる。そんなもの手にした人っているんだろうか?

地獄でなぜ悪い

地獄でなぜ悪い
無駄だ ここは元から楽しい地獄だ 生まれ落ちた時から 出口はないんだ ・・・ 教室 群れをはぐれた 重い空を行く 生まれ落ちた時から 居場所などないさ

ベルセルクの「逃げ出した先に楽園なんてありゃしねぇのさ」やHERの「あと何万年生きたって悩まない日はないし 誰が隣にいても孤独じゃなくなる日は来ないから」などの言葉が思い出される。

地獄であることを認めた上で、どうありたいかを選ぶ

深呼吸して考えると、自分が選べるのは“この地獄をどうやって生きていくか”ということくらいだという回答に帰着する。今持っている悩みやコンプレックスが一生無くなりはしないとして、その上でどういう自分でありたいか?どうやって生きていきたいか?人間とどんな風に接していきたいか?そして、どう死んでいきたいか?

世界が別物に代わってくれることを期待するよりも、今自分が立っている場所は、天国になりえるはずもなく、自分が極楽浄土に呼ばれることも永遠にないってことを、受け入れる方が地に足がついた考え方のように思う。

地獄に堕ちていると悟ることと、死人みたいな顔をすることは、同一ではない。地獄の歩き方にも、もう少し遊びがある。状況の過酷さとそれを笑い飛ばせるか否かは必ずしも比例しない。

自分の不安を無くすためのコミュニケーションとか意味が無い。だって死ぬまで不安は消えないのだから。相手から良く思われたいとする希望も叶うことはない。相手の気持ちは操作不能だ。だからといって、不安にかられた発言しか僕らはできないのかと言われれば、それも違う。

刀が自分に刺さった状態でも、最後にどんな死に様を“選ぶか”って余地は手の中に残されている。自分はダメな人間だと相手にバレているかもしれない。それでも、そんな状態でどう相手と向き合いたいかということを考えられればと思うのです。