凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

子どもを持つことは未来へのアクセスキーを持つことなのかもしれない

友人に子どもができ、ここ最近一緒に飲んでてそう思った。自分は子どもがいないので、実感を持ってはわからないのだけど。

芸術家が後世に残る仕事をするだとか、物理学者が世代を超えた人間に影響を与える理論構築をするだとか、一般の生活の中でできるそれらに類するものに子どもがいるのかもしれない。

自分の死後、自分の影響がこの世界に残る。

死後に自分以外の人間がどんな風に生活を営むのか、ということに僕はそんなに興味を持てない。もちろん自分が良い仕事をしたいと思うし、人生を楽しみたいとも思う。けれど、別にこの社会を良くしようだとか、世界に働きかけようだとか思わない。

自分が死ねばそれで終わり。自分の命が消え、自分の意識や体験はそこで途絶える。「無い」を体験することができないから、死や死後の体験すらない。ただ自分という存在が欠けた世界が淡々と続いていく。ちょっとゾッとするけど、それを受け入れて生きていきたい。

ただ、そこに、子どもがいてくれるっていうことは、ある意味ひとつの救いである。

さらには、その自分の欠けた世界へ「実感」をもってつながるためのアクセスキーは、その世界へ残る人への感情的なつながりだと思う。

それは、子どもでなければならない訳ではない。恋人でも家族でも友人でも良い。ただ、未来を持っていて、過去と自分と未来を繋ぐ存在としての子どもの存在感って「大きい」んだろうなと、30代になった今、てとも力強く感じます。

孤独でいること、無宗教でいること、他人とつながらなくても生きていけることを、さも良いことのように思っていたけれど、それ以外の選択肢も魅力的だと今は思います。それが、もしかしたら老いや逃げやいいわけかもしれないけれど、こんな風に自分が変わっていくことも興味深くみています。


さて、ボクは、いつどんな形で何を残して死んでいくんだろう?

死を見つめる心 (講談社文庫 き 6-1)