凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

人となりは細部に宿る

人を理解するとはどういうことだろうか?思春期やら青年期にウダウダ考えていたことを、思い出すきっかけがあった。それは、スタジオジブリプロデューサー鈴木敏夫の仕事道楽を読んだこと。

仕事道楽―スタジオジブリの現場 (岩波新書)

宮崎駿の映画ストーリーの作り方がとても印象的だった。

映画を作るにあたって宮崎駿の発想はまず、極端な細部からはじまります。どんな洋服を着ているか?どんな髪型か?何を食べているか?どんな家に住んでいるのか?そこからイメージが膨らんでいく。

ジブリ作品の中で動くキャラクター達は、とても人間的だと感じます。それは、完ぺきそうなサツキが泣いたり、ソフィーがすぐに殻に篭ってしまったり、何だか人間って時にそうだよね、って振りきれなさや雑じりっけや葛藤する様を感じます。

それは、作られた人工的な人格という感じが少ない。そこについては、本の中で高畑勲の語るエピソードがとても印象的だ。

彼の人物の持つおそるべき現実感は、対象の冷静な観察によって生まれるのではない。たとえ彼の鋭い観察結果が織り込まれるとしても、彼がその人物に乗り移り、融合合体する際の高揚したエロスの火花によって理想が血肉化されるのだ。 彼はだから、ドラマの役割として設定した人物に次々と思い入れしていき、その人物なりの魅力や悩みや言い分を与え、悪玉さえいつのまにか悪玉でなくしてしまいがちである。複雑な厚みのある、あるいは面白く人間味のある人物像を想像するということでは、優れた作家に共通する傾向かもしれないが、宮さんの場合、自分が生み出し、長い制作期間付き合っていかねばならない人物を、思い入れなしに突き放して描くのは耐えられないということもあるのではなかろうか。

こういうことが人に入り込んでいく、歩みこんでいくということなんだろうと思う。それは、その人の全体像を把握するだとか、こういう性格だ、こういう人物だと大枠を理解することの対極にある。 一瞬の、今、彼や彼女の中でチリチリと確かに動いた部分。そういったものが、異なった個体同士が重なるための引っかかりになるのだろうと思う。主義、思想といった、ことばで構成されるシンボリックな表象より、その仕草、その服、その表情といった、そこで生まれる、まさに今のその人が、その人なのだろう。分かるって体験は、それは相手が持つものがドライであるときでさえ、その肉体的な実感というものが存在している時にピッタリとくるのだろう。心に穴が空いたようなという、抜け落ちた感覚さえ自分を重ね、言葉ではなくて、自分の身が歪む体験として理解しようとして近づける道があるんじゃないだろうか?

以前は、こういう生々しいことが嫌いだったし、自分のテリトリーに他者が入ってくることへのアレルギーはとても強かった。けれども今は、淡々とした静かな生活の中で時折おとずれる、人と重なる瞬間を貴重なものだと感じるのです。