凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

人の健気さを称賛する罪業

東日本大震災から2年がたった。自分たちにできることは、自分の目の前の生活を精一杯生きることと、災害を思い出し続けること、よく話し、よく笑い、よく働き、よく泣くことだと、逃げだと思いつつ被災地から遠く離れた場所でテレビをみながら思っていた。

もちろん、僕らは協力しなければならない。少しでも、素晴らしい明日がくるように、互いに手を取り合わなければならないのは、当然だ。それでも、被災についての特集を見るにつけて、その報道の仕方にやりきれなさを感じてしまったので、それを残しておこうと思う。

西洋甲冑(バー付き)


鎧を身にまとった市民

大きな災害は、ある種、戦争のようなものだ。日常は、いつの間にか姿を隠し、次の瞬間の命の保証すらどこにもない。本当に自分の知っている人が死に、傷つき、取り残されてしまう。

そんな時には、みんなが戦う他ない。緊急事態なんだ。それこそ、鎧を身にまとって身体を、命を守ろうとする。もちろん、心にも鎧を被せて壮絶な今を乗り切っていく。

心につける鎧は一見美しい。ぴかぴかして、周囲のひとも称賛してくれる。「私が頑張らなくっちゃいけないんです」「あの人に比べたら全然」「嘆いても始まりませんよ。皆で協力していくしかありませんから」。これらは鎧だ。戦うためには着なくてはならなかった鎧だ。「ツラい」と認めてしまったら立っていられないかもしれないから着込んだ。「悲しい」と口に出したら、もぅ二度と歩けないかもしれないから見えてないフリをするという心の盾だ。それはもちろん必要なものだし、それらが多くの人を守ったことは間違いない。

脱げない鎧

けれど、戦争が終わり、家に帰った後に、鎧は必要ない。本来、人々は家に帰って鎧を脱ぎ、身に着ける回数を減らし、再び戦争が起こることがなさそうだとわかると、鎧を飾ったり片づけたりして、普段の生活に戻っていく。

だって、ティーカップをつかむのに鎧は大きすぎるし、息苦しい、子どもを抱きしめても痛がられてしまう、鎧を着てソファーに寝転がっても体は休まらない。脱ぐべきなんだ。本来、家庭では。

大きな戦いの後は、中々、鎧を脱げないのも当然だ。焦げ付いて皮膚と癒着しているかもしれない。ずぅぅっと、弱みを他人に見せられないかもしれない。それでも、僕は鎧を脱いでいくべきだと考える。

鎧を脱ぐことを許さない僕ら

戦う人は美しい。見ている人間はそれを灯火にして、世界は素晴らしいと信じることができるし、希望を持つことができる。その人に、そのままの戦士でいることを期待してしまう。

災害支援の話しで、被災者のペースで自由に話しができることは大切だといわれる。それはそうだと思う。罪深いのは、その人の一面を切り取り、発信をすることだ。

自分のイメージが周囲に植えつけられたり、周囲に期待されたり、自分は○○な人間だと語らされると人は、その型の中から脱け出せなくなってしまう。美しい戦う人々は僕らに希望を与えてくれたが、今や僕らは彼らの首をこの手で絞めているんじゃないだろうか。