凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

ジョゼのように

膝の手術を経て退院し、少し時間が経ちました。松葉づえ生活にもちょっとずつ慣れてきました。今日のエントリは、その生活の中での所感です。

切れてしまっていた膝の靭帯を他の腱から移植して復元中なので、目下、装具にて脚を固定しなくてはならず、煩わしいことは確かにあります。松葉づえで上り下りするわがアパートの階段は急だし、入浴するときには膝をビニール袋でいちいち包まなければならないし、片足に体重をかけられないこと、それによって生じる面倒の多さにストレスは溜まります。

今日は、友人にショッピングセンターの買い物につきあってもらいました。福祉関係に勤める彼の強い勧めで、今日は車いすにのることにしました。入院中の病棟ではよく使っていましたが、外で車いすに乗るのは初めてでした。確かに、彼の言うように体力的には断然松葉づえよりも楽です。安定もするし、彼も後ろから押してくれます。

けれど、今日の気疲れは中々大きなものでした。エレベーターでも、たくさんのスペースを使ってしまって、乗れないお客さんがいたり、狭い通路で避けてもらったり、気づいてもらえない時に「すいません」と声をかける機会やら、できるだけ邪魔にならないように避けながら進んだり・・・2時間の買い物で結構ぐったりでした。そんなことを友人に話すと「まだまだ修行がたらんのう」と、よくわかんないリアクションをもらいました。

家に帰って、また、煩わしくビニールに膝を包まれてシャワーを浴びつつ。「まあ、あいつの言うとおりだな」と、思ったわけです。

振り返れば自分の気疲れや、感じる申し訳なさは、どこか過剰な部分(?)があるなと思うわけです。なんとなく、他者から責められないため、そういう自分の情けなく感じているためか、必要以上に大人しく申し訳なさそうにしている自分がいるのだと。

そう考えていると「ジョゼと虎と魚たち」のジョゼを思い出しました。

http://www.youtube.com/watch?v=g-zrgKAQnQg

過剰に卑下する気持ちは、逆の立場にあるときに相手を煩わしく思う気持ちが自分の中にある証拠であろうし、疑心暗鬼やら差別意識やら、自分の中にあるそういうモノの種は、「なんとなく持ってるイメージ」に巻き込まれながら、ゆっくりと育っていくのだろう。

そういう曖昧な排他的態度を飛び越えるには、自分を守るガードをおろして、世界に触れていくことが必要なんだ。どのような境遇の中にいても、(痛みを感じないわけではないけれど)その中で、料理を作り、本を読み、率直に人と話をしたり。安全で利己的なイメージの中にとどまるのではなく、淡々と、率直な自分でいる。

そうあれたら良い。ジョゼのように。まだまだ、修行が必要だけれども。