凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

僕は みにくい バケモノ です

世の中にはタブーがあります。

タブー (taboo) とは、もともとは未開社会や古代の社会で観察された、何をしてはならない、何をすべきであるという決まり事で、個人や共同体における行動のありようを規制する広義の文化的規範である。ポリネシア語tabuが語源。18世紀末にジェームズ・クックが旅行記において、ポリネシアの習俗を紹介する際に用いたことから西洋社会に伝わり、その後世界各地に同様の文化があることから広まった。禁忌という訳語も用いられる。
タブー - Wikipedia

タブーは多義的な言葉ですが、今回のエントリーでは「現代社会におけるタブー」、特に「口に出してはいけないこと」という意味で用います。

現代社会におけるタブー
現代における「タブー」は、意味の拡張により、本来の使用法とはかけ離れた用法となっていることもしばしばある。身近な例としては、言霊信仰がある。これは死など、縁起が悪いとされることや、本名である諱の避諱のように、それについて極力、言及しないこと。口にしなくてはならないときは、遠まわしに言うこと、などといったものがある。
タブー - Wikipedia

メディアやウェブの中で声高に、いじめや暴力が存在してはならないこととして報じられています。それが人間としてあるまじきモノだと。「人間は生まれながらに善も悪も両方を含んでいる、争いは失くすことは不可能と分かっていて、それでも、目指そうではないか」ってくらいの意見は理解できます。けれど、本当に心の底から「普通の人間には、暴力や攻撃性、敵意は存在しない」と“心から”信じているようにメディアやウェブは主張します。


相手が不快になる言葉を悪意を持ってぶつけることは、相手の人権を侵害していますし、暴力を含めそれは犯罪です。人間のコミュニティを維持する上でそれを許してしまっては集団が成り立たないでしょう。実際にそういった事案が発生した場合には、刑罰、賠償問題などが相当です。加害者は、責任を負い裁かれるべきです。けれど、その言葉をタブーにする、無かったコトにするということが本当に“よい”解決方法なのでしょうか?タブーの副作用には差別心を肥大化させるという側面があります。人の心の中の敵意や攻撃性、差別心を押し殺そうとして、存在するものから目を逸らし、見ないよう、見えていないように不自然に振舞うことが、消そうとしている敵意や差別心を歪んだ形にするのではないか?と思うのです。誰の中にも存在して、どうしようもなく世界に転がっているものを、自分達が怪物に育て上げているのではないか?と・・・。


この世界の中では、当然のように歴然として、殺人が毎日起こっていて、交通事故で亡くなる人がいて、加害者になる人間と被害者になる人間とその家族と野次馬がいて、中絶される命があり、命のとまった胎児の肉体をかき出さなければならない仕事があり、セックスによってHIVが感染する瞬間があり、浮気をする人間がいて、小児性愛者がいて、いじめがあり、自ら命を絶つ人がいて、命をつなぎとめようとする人も、命を金に替えようとする人もいる。残酷な事実として確実なのは、「わたしもあなたも必ず死ぬ」と言うことです。


私はメディア報道やネット上の「正しい」匿名意見を見るにつけて、ある種、羨望のような罪悪感のような感情を抱く。なぜなら、僕の心の中には醜く目も当てられないようなものがあって、それが顔を覗かせる瞬間が確かにあるからだ。カップルを見て、何食わぬ顔をしてあるいているけれど、お互いの性器をこすりあってるんだなと思ったり。これまで喧嘩をしたり、人を傷つけたこともあった、イライラしながら車を運転したことも、事故をしたことだってある。人を殺してやりたいほど憎んだことも、全てが終わってしまえば良いと思ったことも、成功者の住んでいる街に隕石でも落ちればいいと思ったこと、非倫理的なイメージが頭をかすめたことだってある。甘えていただけなのかもしれないけれど、思春期から高校時代なんかは、他者と上手くやっているように見えても心の中は疑心暗鬼と猜疑心で一杯だった。自分は誰からも理解されることは無いと、周囲は敵だと思っていたし、学校という世界に自分は蝕まれると思っていた、他者を蔑んで、舐めてた。今ふり返ってみると、あの頃に、もしも何かのキッカケがあったとしたら、取り返しのつかないことを起こしてしまっている可能性だってあった。テレビを見ていて、「ひとつ間違えば、私はあなた(加害者)だったかもしれない」という想いが心のどこかにある。
少なくとも、自分の中には醜いバケモノがいる。目を背けようとしても、そこに“ある”のだ。むかしと比べれば、それとの付き合い方が分かってきた気もしているが、それが再び暴れださないという保障なんてどこにもない。状況によっては、明日僕が誰かに殺される可能性も、誰かを殺してしまう可能性もゼロではない。


残念ながら、僕の心の中は真っ黒です。社会に適応しているように見えても、結局は「立派なヒト」をむりくり目指して上書きに上書きを重ねた不細工なドロ人形なのです。性善説というものは、確かに説得力はあります。けれど、僕の中には目を逸らしても、マントルのように見えない所でうごめき、日常に顔を覗かせようとする汚い部分がどうしてもあるのです。


それは、僕が「悪人」であるとは思いません。人と近づきたい、優しくされ、優しくなりたい、役に立ちたいと思う気持ちもあります。けれど、その反対物も確かに存在していて、ブレブレで混沌としているのです。気分や状況によって、考えも振る舞いも、腹の底も、おそらく本心すら変わってしまう。そんな不安定な人間が僕なのです。


僕は、そんな自分の醜く、汚らしく、いやらしい部分をタブーにはしたくない。イノセントワールドで、無垢でピュアに目を輝かせることは、僕にはできない。バケモノは自分の中に確実にあり、どろどろと心は汚れて揺れる中で、それでも人にやさしくしてあげたい。過ちを犯し続けるだろうけれど、それを反省し、人に触れて生きていきたい。清廉潔白なみなさんと僕は違う。クズのような人間ですが、僕はこうです。こんなもんです。それでも誰かに認めて欲しいと、同情を欲する、最後までクソ最低なエントリーでした。