凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

「アイシテル」の言葉の意味を教えて

ちまたにありふれているのに、その実感を掴むことが難しい言葉。その最たるものが「愛」だといって良い。これまでの自分のスタンスは、そんな曖昧で無責任で、自己陶酔を感じる言葉はぜっっったいに使いたくない、ドライに淡々と生きていきたい、・・・と思ってました。けれど、ソロソロ逃げずに考えてみようと思ったのです。

愛するということ

「愛」の実態を知らないということ

「愛」「愛してる」「愛おしい」・・・ドラマや映画、小説、世の中には愛という『ことば』が溢れています。一週間テレビをつけっぱなしにしておけば、必ず「愛」という名の言葉を耳にすることでしょう。
けれど、もし「愛とは何か?」という質問をされたとして、僕らは答えられる回答を持っているでしょうか?「愛」という名の言葉の意味を僕らはほとんどわかっていない。これだけありふれた名前なのに、その名前の主(あるじ)である実態の手触りはない。こんなに名と主にギャップのある組み合わせというのも珍しい。

人は、名前とその主との関係をどうやって学ぶか?それは、その物に触れたり見た時に名を与えられることによる。母親が子どもに犬を指差し「ワンワンよ」と声をかけ、膝をすりむいて泣いている時には「あ〜痛かったわね」とその感覚の名前をくれる。そうやって人間は、主体と名前の関係を学んでいく。愛について理解できないとすれば、それはおそらく僕たちが 愛 に触れたことがないと感じているからだろう。

反面、死は、名前とその現象のつながりは明確だ(死後の世界についての論争はさておいて)。それは死が残酷な程に触れざるを得ない物であるから。顔を知っている人も死んでしまう、自分を産み落とした人、同じ授業を受けていた人も、自分より若い人ですら死んでしまう、当然だけれど昨日まで生きていた人が今日死んでしまう。ある意味、死はその実態をまざまざと突きつけてくる。どういう形にせよ、僕らが体験する人間の終焉に「死」という名前が与えられる瞬間がある。けれども、愛は違う。「今のコレが愛だ!」と教えられたことが、小学校の授業の中であっただろうか?とにかく「愛」の実態が掴めないのだ、探しても探してもコレが愛であるという目に見える答えがないんだ。

見えないものに触れるために

ウィルスは、中世ではその名を持っていなかった。当時、ウィルスが存在しなかった訳ではなくて見えなかったのだ。なのでウィルスは、死神であり、呪いであり、悪魔でもあった。
もしかすると愛も同じなのかも知れない…。僕らの目では、見えていないだけで、ここにあり、違う形で僕の目に写っているのかもしれない?実は、想いもよらないものの中に愛は潜んでいるのかもしれない。真逆の概念の中。例えばそれは、憎しみや悲しみ、絶望、罪の意識の中に。
一歩近づけば、受け止めるために両腕を広げれば飛び込んできてくれるかもしれない。

恐れずに幸せになるということ

間違いだらけと判っていても 
二人は進んでいく
つまりそれは 
恐れずに 幸せになる
切符を 手にしている

「恐れずに幸せになる」って強烈な言葉だと思います。けれど核心をついている。「愛なんて存在しない」「愛なんていらない」「だれしもが孤独」・・・色々な文句はあるのだろうけれど、不平不満は何もしたくない気持ちや傷つきたくない気持ちの裏返しでもあります。得ようとすることは、必然的に失う可能性のスイッチを入れる。ベットするってことは、損するかもしれないまな板の上に自分を乗せるってことです。勝負に出なければ、得ることは出来ないけれど、失うことはない。愛を追い求めずにいるのは、その先にあるかもしれない失望や幻滅、期待はずれ、傷つきから自分を守っているともいえます。絶対安全地帯です。どこかにあるらしいが、自分はまだ知らないって状態は楽は楽なんです。


幸せになろうとして一歩を踏み出すことは同時に、批判や攻撃、妬み嫉みの矢面にたつことです。僕はそれをいやらしくて、利己的で、好きになれませんでした。それはある意味でいじけていただけなのかも知れません。僕が気にしていたのは、自分が「どうあるか」より人からの評価や、冷やかされないことだったのだと思います。


「愛されてみよう」「受け止めよう」、この2つが出来るだけで、きっと世界は姿を変える。それらは、力を入れることではなくって、心の奥底で静かな決意をして、半歩前に出るだけで良い。


今日、仕事で関わっていた知人が余命わずかだと知りました。進行の早い病気で、残された時間は少ないとご家族は聞いたそうです。彼に僕ができることは無い、告知がされていない彼に会ってどんな顔ができるのだろう?僕はするのだろうか?

僕らの命は終わる。それは本当に、一緒に歩き、笑い、寝転んだりした日常のすぐ横に当たり前にあって、それまでにできることは本当に限られている。もう、人の評価を恐れている時間なんて僕には残っていないのかもしれない。愛についてエントリーを書き始めて筆が止まって放置しかけたときに、彼のこと知り、そして今日もまた一日過ぎてしまった。人生は無慈悲に淡々と進んでいく、愛を求め、しかも今までどおり笑いながら歩いていけるだろうか?