凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

『死の起源』に再び触れて

  「人間はなぜ生まれ、生きてゆくのか」、という人間にとって初源的な問いに答えてくれるものは、あるのだろうか。それは、生き遂げた終焉としての「死」以外にはおそらくないだろう。だから、いまはここにないからといって忘れてはならないのが「死」なのである。死ほど私たちの今、現在を息吹かせてくれるものはないはずである。

年末に実家の本棚を整理していると、懐かしい一冊の本を見つけた。この本を初めて手に取ったのは、たしか18歳の高校卒業が間近の頃だったと記憶している。
したり顔で斜に構えて、言葉だけの苦悩を抱えた気になっていた当時、田沼靖一の「死の起源 遺伝子からの問いかけ」と出会った。ビジュアル系バンドが売れたり自殺掲示板が問題になったりしていた時期だったと思うけれど、当時から陶酔感プンプンのカルト的な死は自分にはピンとこなかった。



科学的に捉えるドライな死

著者は長年「死」(より正確に言えばアポトーシス)について研究をしている。年末に書籍をみつけてから検索をしてみたけれど、毎年論文を発表していて大学教員らしい大学教員なのだろう。
東京理科大学 研究者情報データベース
本書は絶版になっているのが惜しいけれど、「ぼんやり怖い」としか死を捉えられていなかった僕に科学的な立場からドライに死を見せつけてくれたという点ですごく感謝している。
小学校高学年から「死後の世界」っていうものは自分にとって大きすぎる恐怖の対象だった。考えずにはいられないのだけれど、泣きそうなくらい巨大な、捉えきれない怖さが襲ってくる。テレビで「拡大を続ける宇宙もいつか消えてなくなる」なんて見たことを布団の中で考え始めて、「宇宙が終わって無になるってどういうことなんだ!?」「考えることすら出来ない、意識もない」「自分が消えてしまう。自分のいた世界すらなくなってしまう」、身震いしながら恐怖をぬぐいきれずに、家族の顔を見に起きる・・・なんてピュアな時期がありました(その恐怖は今もきっと変わらずあるのだけれど)。
この本は、生物学的に死を捉えています。内容もアポトーシスやアポビオーシスについてメインで語られています。進化の過程の中で、生命が「死」を手に入れ、何を得たのか?個体としての死を遺伝子に組み込み「不連続性」を選択することによって、種としての「連続性」を獲得しようとした過程が、淡々と語られています。

  細胞が死ぬというと、一般的には、何らかの損傷を受けた細胞が衰退して単に崩れていくことを思い浮かべるだろう。これは古くから壊死(ネクローシス)と呼ばれている死に方である。

  その発端は1972年、当時スコットランドにいた病理学者のジョン・カーらが、さまざまな疾患の病理標本の細胞を電子顕微鏡で詳しく観察したことに始まる。彼らは、これまでいわれてきたような、細胞が膨潤して崩壊していくネクローシスと全く異なる細胞死があることに気がついた。…その後、細胞自らが死を決定し、一連の過程を踏んで死が実行されているのではないかと考えるようになった。そこで、この細胞の死に方に対して「アポトーシス」という言葉をつけて、ネクローシスと区別することを提唱した。

この細胞の自殺であるアポトーシスによって、おたまじゃくしの尻尾はなくなり、胎児の水かきも消える。種としての姿を形作るためにもアポトーシスは存在している。
こういった形で、生物が死や性をなぜ獲得し、そこにどんな意味づけがあるのか、個体の死が種の生にどう寄与しているかなどが述べられている。

宇宙が消えるその意味

昔から僕は、宇宙が消えてしまうという話しの理不尽さに耐え切れなかった。その慈悲のなさ、救いのなさにどうしても納得できるだけの意味をもてないでいた。けれどこの本の一説はヒントを与えてくれた。

  大きな視点から見ると、私たちは同じ場所に住んでいるわけで、固体がきちんと消去されなければ、新たな固体は生まれないし、その集団としての種も社会も生まれないことになる。つまり、死の階層性というようなものが、細胞から固体、固体から社会までつらぬかれている。

  すべての生命体の運命は、最終的には星が決めているが、その星さえも決して永遠の存在ではない。また、最近の研究結果から、宇宙はこれまで考えられなかったほどのスピードで膨張していることがわかってきた。急激に膨張してゆくと、宇宙の密度が低くなり、銀河や星が生まれないことになってしまう。するとやがては、生命体がまったくいない宇宙になってしまうことになるだろう。しかし、それはまた、新たな生命の誕生への一過程と考えられなくはない。

読み返してみるとそんなに衝撃的な書き方ではないけれど、当時はすごく感銘を受けてしまった。死ぬことだけをとってみても、僕らは次の命のために『席』をあけてあげているともいえる。そして、自分は幾多の人からの影響を受けた上で今の自分でいるし、自分は死んでしまったとしても、自分がこれまで会った人のちょっとした行動や選択に自分が影響を及ぼしていたとすれば、それは連鎖的に世界の傷跡として残っていく。この宇宙が消えてしまったとしても(現代の科学から見てもそのような予測がたっているかは分からないけれど)、この僕らの生きている今があることで影響が残るのではないだろうか?そう考えれば、宗教的な立場に立たずとも自分を世界の中につなぎとめられるのではないか?・・・と、ある種の救いを10代の僕は得たのでした。
もうすぐ30歳だけれど、やっぱり死ぬのは怖いです。それは変わらない。きっとこれからだって、泣きそうなくらい死を恐れることがあるだろう。けれど考え続けていきたいのです。カルト的にならず、盲信せず、自分の日常生活の中に死をそっと受け入れてあげたいと思うのです。