凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

僕らの日常と死と歌と

神や宗教を失ってしまった僕らは、それに変わるものを探したり、作り上げなければならない。しかもそれは、現代では個人で行わなければならない孤独な作業だ。

昔、その部分は人と人との物理的な距離の近さや宗教によって担保されていた。強い信仰心を持つことが難しい現代では、他者や故人との絆、死をどう意識できるかというのは、なかなか困難な課題だ。

特に、死と自分の生を結びつけることは難しい(カルト的な意味ではなくて)。西日本の片田舎で育った僕の家には、仏壇があって、曾祖父、祖父母の遺影があり、夕食の前には一番に炊けたご飯をお鉢として供えていた。それが当然の営みで日々の生活の中で繰り返され、無意識のうちに死者と死が日常の中に顔を覗けていた。

大学進学とともに一人暮らしを始め、開放感をいっぱいに感じたが、死の感覚は僕の前から完全に姿を消してしまった。ながい時間が流れたけれど、たまたま、YouTubeを見ていて、死を思い出す曲を聴いた。

Mr. Childrenの花の匂い

PVは召集令状がとどき戦地に赴く父親がモチーフだけれど、亡くなった家族や愛おしい人とコミュニケーションが描かれている。詩中の「あなた」を亡くなった大切な人と仮定してPVを見てもらいたい。

届けたい 届けたい 届くはずのない声だとしても あなたに届けたい
「ありがとう」「さよなら」
言葉では言い尽くせないけど この胸に溢れてる


花の匂いに導かれて 淡い木漏れ日に手を伸ばしたら
その温もりに あなたが手を繋いでいてくれているような気がした
……

“永遠のさよなら”をしても あなたの呼吸が私には聞こえてる
別の姿で 同じ微笑で あなたはきっとまた会いに来てくれる
……

“本当のさよなら”をしても 温かい呼吸が私には聞こえてる
別の姿で 同じ愛眼差しで あなたはきっとまた会いに来てくれる


SUPERMARKET FANTASY [初回限定盤:CD+DVD]

僕は、何年かぶりに祖母の顔を思い出した。むしろ顔というより、雰囲気、会話をした後の穏やかな空気とそこにいる祖母の存在感というようなものを。『別の姿で 同じ微笑で あなたはきっとまた会いに来てくれる』というフレーズは、喜びや優しい気持ちになる出来事、もしくは自分の行動や所作の中に、故人を見つけることが出来るし、そういう瞬間に出会うことが故人と再会するということであると示唆しているんだなぁと、腑に落ちる感じがした。


僕らは、茶道のように思いを形に凝縮してひたすら繰り返すだとか、念仏をひたすら唱えつづけるといった形で触れることでしか、死を意識し続けることはできない。

中沢 ま‥‥考えてみれば「お茶」というものも、もともとは、戦場の武士が、これから死地へ向かうときの「お作法」として成立したわけだから。…
本木 じゃ、まさに「最後のもてなし」みたいな意味を持ってるんですか、茶道って?
中沢 そう。…そもそも「お茶」というものは これから死に直面する人たちのこころがまえなり、身体のふるまいかたを、茶道という様式美を通じて、整えるものなんです。
ほぼ日刊イトイ新聞 - 死を想う

この本は汚れれば汚れるほど良い。(中略)イスラムの人々が何百年も使って、文字が読めなくなってしまっても、なおかつめくっているコーランのように、いつ、どこで、だれがいても、ちょっとしたひまのおりに、汚れてメロメロになるまで、何年たってもめくってほしいというのが願いだ。
メメント・モリ


音楽は現代においてそのような役目を果たせる。これだけ一人一人が毎日接触してる芸術って現代において他にはない。繰り返し繰り返し自分の中にメッセージの種を植え、水をやり続けることが出来るはずだ。


もちろん聞きたいものを聞くってことが基本だし、それ以外は邪道だ!音楽ではない!って批判されそうだけど、死やメッセージを取り込むために自分の中に音を鳴らし続けるというのは僕は1つのもがきとしてありえるのだと思う。

そして、逆に考えればミュージシャンは聖典を作るチャンスを得ているとも言える。それは、広く大衆を救うものではないかもしれないけれど、個人に響き、誰かのためのコーランになりえるのだ。論理的でそれでも情景がうかび、感情を刺激して他者とのつながりを意識できる歌。そういったものを作れる人がたくさんいてくれると、僕は個人としてとてもありがたいしとても助かると思うのです。