凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

「竜馬がゆく」にみる切腹文化の意味

今は、竜馬伝に代表される空前の竜馬ブームです。そんなブームとは別の流れを汲み、私は「キャバクラ嬢に薦められる」という微妙なルートから司馬遼太郎の「竜馬がゆく」を読み始めました。その中で、武士の切腹に関する記述に興味をかきたてられました。少し書いてみようとおもいます。
*本エントリーは現代の自殺を肯定するわけではありません。あくまでも、戦国時代〜幕末にかけての武士の切腹文化についての考察を目的としています。

司馬遼太郎の切腹に対する考察

竜馬がゆくの中で、武市半平太が死罪に処せられ切腹することになります。その文脈のなかで、司馬遼太郎は以下の様に切腹について考察しています。

 武士の虚栄は、その最後にある。
 切腹のことだ。どうみごとに腹を切るかが、
 ――おれはこんな男だ。
 と自分を語るもっとも雄弁な表現法であるとされた。
 だから武士の家では、男の子が元服する前に、入念に切腹の作法を教える。
 筆者は、日本人に死を軽んずる伝統があったというのではなく、人間の最も克服困難とされる死への恐怖を、それをおさえつけて自在にすることによって精神の緊張と美と真の自由を生みだそうとしたものだと思う。その意味で切腹は単にそのあらわれにすぎないが、その背後には世界の文化史のなかで屹立しているこの国の特異な精神文化がある。その是非を論ずるのではない。ある、ということを知るだけでよい。(「竜馬がゆく(四)」より)

切腹それ自体が美学ではない。美学を追求するために切腹がある。

「腹を切って死ぬ美学」なんて馬鹿馬鹿しいと感じることでしょう。我々は「切腹」と聞くと、日本の悪しき玉砕主義だとか、命を粗末にするという印象を持ちます。ただ、切腹に関して言うと腹を切ること自体が美学ではないのです。
自由(特に精神的な自由)が恐怖を押さえつけることによってもたらされる。これは、非常に合理的な考え方だとおもいます。どんな種類の恐怖であっても、それがどうしようもないほどの影響力をもっているのであれば、自分の行動の自由は奪われてしまいます。
例えば、「人からの評価が気になって自分の意見が言えない」だとか、「失敗が恐くて一歩を踏み出せない」といったことと同じことです。自分のコントロールできない恐怖は、自分がどう行動するのかということに影響を与えていきます。それは、何かを追求するとき、何かを成し遂げようとするときに非常に、邪魔になるのです。

切腹は死を自分の中に取り込む作業

それでは、その恐怖というものをどう抑え込むのかという話になります。それは恐怖から目をそらすことではなく、恐怖の対象そのものを自分に取り込むのです。死を遠ざけるのではなく、当たり前のものとして、死に方をしっかりと練習する。自分から進んで恐怖に近づいて行くのです。
重要なのは、「切腹をする瞬間」ではなく、「切腹の準備をする」ことです。切腹することなく討ち死にしたり、病気や寿命でなくなることもあります。ただ、切腹をするという行為を自分の人生の中で、当たり前のこととして、方法を習い、練習をし、想像をしておく。日常的に死を生活に取り込む行為こそが大切なのです。
それは、「食べる」「飲み下す」という感じなんだと思います。死の恐怖を食べて、それを自分の一部にしてしまう。もちろんそう簡単に飲み込めるものではないので、食道を傷つけ焦がしながらそれをする。
そうして、美学・武士道を追求するための実質的な行動を恐怖に邪魔されることなく遂行することを可能にするのです。

まとめ

ただ、それは幕末〜明治など生きること自体が不安定な時代の覚悟のし方であり、それが現代にそのままマッチするかといえばそうではないでしょう。けれど、「恐怖を取り込み、心と行動を自由にする」というエッセンスは、現代でも有効なのだと思います。それは、辛い思いをしないとか、簡単にとかいった方法ではありません。しかし、猛進したいときにはそれが力を発揮する場面はあるはずです。「死の取り込み」「最悪の状況の取り込み」の現代への適用例と考えられるリンクを載せておきます。