凹レンズログ

くりかえす生活の雑感。まとまらぬままに。

メメント・モリは、死の答えを知ることではなく、かたわらに置くことだった

メメント・モリ
死を想え

メメント・モリ
メメント・モリ
posted with amazlet at 09.11.06
藤原 新也
三五館
売り上げランキング: 9403


若いときは皆そうであるように、私も思春期以降は「死がどんなものか」を理解しようと躍起になっていた。大学生時代、まだ10代のときに、はじめて『メメント・モリ』に出会った。強烈な写真とメッセージに衝撃を受けながら、何度も読み返した。当時は、死から目をそらしてはいけないということは分かったが、結局のところ、死とは一体どんなものであるかはわからなかった。


もうそれなりに時が流れた今、本棚から久しぶりにメメント・モリを手に取り、読み返してみてあることに気付いた。この本は、一言も「死とは何かという答え」については言及していないのだ。昔は、その答えが書いてあるものだとばかり思って、この本の中をしらみつぶしに探したものだった。
大切なのは死についての理解の仕方ではなく、死とどう接していくかということじゃないのか?
ふと、そう思った。

死を理解することはできるのか?

死を理解するための方法は2つある。1つは死ぬことで、もう1つは盲目的に何かを信じること。キリストでも仏でも、どこかの教祖でも構わない。そこに描かれている死や教えを、ただただ強く信じ込めば、個人として死を理解することは出来る。しかし、日常の中でフラットに死を理解することは非常に難しい。現象としての死は繰り返し起こっているけれど、その意味をどう理解すればよいのか、私には術が無い。
では、捉えられない死にたいして、私たちはもう何も出来ることが無いのか?
そうではないと言いたい。元素記号を知らない古代人が火を操れたように、我々も死と上手く付き合うことができるかもしれない。そうすると、わからないながらも死とうまくつきあうことが必要であろうと思う。

死について考えれば良いのか?否

しりあがり寿の「瀕死のエッセイスト」に「不死薬を」という話があり、一人の男が登場する。かれは、死について毎日考えていた。ただそれは、「死にたくない」と一身に考えるというやり方だった。彼は100万回死にたくないと唱える(そのあと神様に不死の薬を授かり、うんぬんという話があるんだけれど割愛)。
彼は死を思っているものの、死を遠ざけよう遠ざけようとするばかりだった。お世辞にも良い人生だなんて思えない。死に触れていたとしても、その恐怖を遠ざけるために死から開放されるために生活したのでは、苦しくてたまらない。必ず訪れるものを、自分から離そうと努力しても疲れるだけで何も得られないのだ。

瀕死のエッセイスト (レヴォルトコミック (2))
しりあがり 寿
ソフトマジック


ではどう死と接すればいいのか?

結局、死の恐怖をなくすことなんて無理なんです。でも、死を遠ざけていると
1.人生を浪費する可能性がある
2.いざ死に直面したときに、自分らしく生きられない
という困ったことになります。それらを防ぐためには、目をそらすでもなく排除するでもなく、死を自分の傍らに置き、動的に一緒に生きていくことしかできないのではないでしょうか。知ったかぶりをするでも、解決しようとするでも、遠ざけようとするでもなく、ともにただ一緒に居ること。強大な力で恐怖にさいなまれることもあり、時には覚悟と活力をもらうこともあるだろう。けれど静的な確固たる死の姿なんて無いのだ。脅威か希望かなんて簡単にカテゴリー化できるものではない、死は死でしかないのだから。

汚されたらコーラン

藤原新也はメメント・モリの中でこう綴っている。

この本は汚れれば汚れるほど良い。(中略)イスラムの人々が何百年も使って、文字が読めなくなってしまっても、なおかつめくっているコーランのように、いつ、どこで、だれがいても、ちょっとしたひまのおりに、汚れてメロメロになるまで、何年たってもめくってほしいというのが願いだ。

その願いは、意味も分からない念仏を繰り返し唱えるような、両親に連れられわけもわからず教会へ足を運ぶような、厳しい戒律の中でメッカに向かって拝むような、ただただ死を生活に内包させていくことだろうと思う。
とにかく死を遠ざけずに近くに居つづけるしか出来ない。いまの社会の中では、それは難しいのかもしれないけれど、命を奪って食事をして、遠縁でも自分に関係のある人の死に触れ、自分の鼓動を聞いたときに「この音もいつか止まるのだ」と、立ち止まり、そのつど感じることくらいしか自分には出来ないんだろう。そうやって、少しでも死を日常生活に近づけ、触り、その感触を確かめながら日々を送っていく。それが、今できるメメント・モリだ。それを後ろから支えてくれるように、藤原新也の写真と言葉は今でも刺激を与え続けてくれる。